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環境資本としての海
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環境資本としての海
林 博司:愛知淑徳大学教授(名古屋大学名誉教授)

 担当者の方から「海」と「環境」をキーワードに気楽に書いてくれないかとの依頼を受け、多少のおだて文句もいただいて木に登る羽目になった。いざ何かを書こうとしだすとこれが簡単にはまとまりそうに無い。昔歌った唱歌にあるように「海は広いな大きいな」ということになって、部分を全体に投射するのに忸怩たる物が出てくる。ともあれ、ご隠居が何かを書かせてもらえることには感謝せねばなるまい。そのような気持ちでワープロへの入力を始めた。
 3万2千キロ近い海岸線を持つわれわれ日本人と海の関係は深く、海の恵みに支えられて、この国があることにはたぶん異論はあるまい。私たちは海を大切にもしたがそれに甘えもしたようである。基本にあった理解は海が大きく寛容で、あらゆる物を飲み込んでくれると言うものだ。海に生きる漁師もそう信じ、何でも海に捨てれば自然に帰るという立場で永く行動した。政治家も例外では無かったようである。123日という短命内閣の首相であった林銑十郎33代総理は色紙に「容量如海」と好んで書いている。詩人も海をたたえて、うたっている。

ありとあらゆる  芥
よごれ 疲れはてた水
受け容れて
すべて 受け容れて
つねに あたらしくよみがえる
海の不可思議
 (高野喜久雄、「水のいのち」の一節)

 かくして我々の「水に流す」文化は不要なもの・不快なものを水に流して海に処理を任せることに、なんら抵抗を感じずにきた。
 化学工業も海を過信した。過信の基にあったのは、ひとつには生物のしたたかさにあったと思う。微生物は多くの人工物を代謝する。もう少し大きな生物も結構多くのものを食べる。明らかに毒で無ければ、つまりすぐに被害が起こらなければ、海に流すことをそれほど躊躇しなかった。結果、代謝不能物が、食物連鎖を通じて濃縮され、我々の胃袋に戻ってくるという事態を招いた。生活に便利な化学物質を使い、それを環境(最終的な行き先は海)に放置し続ける文明に多少の反省は出てきてはいるが、農薬の使用量はなかなか減らない。作物の遺伝子組み換えも、大量の農薬に耐える品種の開発がストラテジーのひとつとなっている。最近でも生産される農薬の量は膨大で、全世界で金額にして約300億ドルといわれている。農薬も最終的には大部分が海に辿り着くはずである。海の体積が大きいため、海水全体で見ればその濃度は非常に低い。しかし海の食物連鎖の中に蓄積され続けているものも当然あるはずだ。
 メチル水銀、ダイオキシンなど有害性の確立された物質についてはデーターがとられ始めている。さらには、こうした有害物質についてはTDI(一日の耐容摂取量)なる安全基準が設けられている。ダイオキシンなら体重1キログラム当たり1.5ピコ(1兆分の一)グラムである。この基準によると米国沖大西洋産のマグロを毎日20グラム大人が食べてもダイオキシンの悪影響は無いことになっている。同じマグロがメチル水銀にも汚染されている。メチル水銀についてもこのマグロを一日20グラム程度まで食べても大丈夫であるということになる。この二つの情報を、普通に扱えば、メチル水銀とダイオキシンに汚染されたこのマグロの一日の耐容摂取量は10グラム(刺身で一切れ!)と考えるべきであろう。まだ気づいていない汚染も入れたらどこまでこの値は下がるのであろうか?マグロ好きには心配なことであろう。安心できるあらゆるデーターを集める経済的な負担も労力も膨大なものになろう。
 落ちになるかどうか知らないが、海を汚さないようにするという態度を生み出す原動力は結局のところ経済的利益のように思う。ODA予算に支えられてインドネシアとの学術交流に10年ほど携わった。海岸にも3度ほど行った。マングローブを切り拓いて作った海老の養殖池で面白いことを見た。

バリ島の竹の楽器
バリ島の竹の楽器:やさしい音も、力強い音も出せる。
すべて自然素材でできている。

海老池に放尿した子供を大人が怒鳴りつけているのである。同行のインドネシア人研究者に、目と鼻の先の集落では、まさに自然の摂理そのままに、人類の排泄物はマングローブ林の中に垂れ流しているのになぜあれほど怒られるのか尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。「ここにあなたという日本人が居るからである。日本人は清潔好きなので、ここの海老が汚いという噂が広まったら、大変だと思ったのではないか?」そして一言付け加えて「日本人はみんな頭がいいから、タ・パンタ・レイ(万物は流転する)という思想は分かっているはずだから心配いらないはずだが・・・」バリ島の海岸では物売りにしつこく付きまとわれた。売りつけたがっているものは直径が25センチもありそうな大きな真珠色をした巻貝のからである。「この貝は日本にはないし、ワシントン条約に違反しない」と勉強の成果を披露しつつ熱心に勧めてくる。値段もどんどん下がって初めの半値ほどになった。「採ってくるのが大変な貝なのでこれ以上は負けられない。」といったときには3掛けになった。根負けして買って帰ったがこの貝が絶滅しても、貝殻だけはきっと日本中にたくさんあるのではと思っている。
 環境を壊すのも守るのも経済の法則からは逃れられないのであろうが、目先の利益のためだけに走らない仕組みを考え、同時に今までに失われた環境資本を取り戻さなければならない。インドネシアのビーチの男性が、貝殻を売って暮らしを立てられるように。
 最小の努力で最大の利潤を得たいがために使った金が、結局はもっと努力を強いてくる。工業資本に食いつぶされた環境資本を取り戻すために、英知と努力を重ねなければならないのは果たして幸せなのであろうか。何はともあれ、この問題は今後の研究者の働きに委ねるしかないであろう。

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バリ島の海岸で種々の貝殻を観光客に売る人々

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