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彦根で震度が5とテレビにでた。1995年1月17日の午前5時47分頃、徹夜明けでやっと寝床につこうとしてテレビを消す直前だった。名古屋での揺れは震度が2〜3だとすると、震源はどの辺だろうか?「まさか有馬ー高槻線が動いたのでは?」、というのが阪神淡路大震災の情報を知ったときの第一感であった。こちらから芦屋の家族に連絡しようとした矢先に、先方から電話がかかってきた。「近くで飛行機が落ちたようなガーンという音がして、ベッドから投げ出されたけど、娘も私も大丈夫。外は真っ暗で何も見えない。これから関東の母方に連絡する。」という内容だった。これは関西近辺での大地震だ、と分かって取る物も取り敢えずすぐ大学に向かったのだった。大学につく6時20分頃までの間、真冬の明け方の空が明るくなって行く様子をつぶさに見たのは名古屋に来て初めてのことだった。「名古屋に行ったら、地震発生や火山噴火等のイベントでゆっくりする暇がなくなるぞ」、と言われたことが思い出された。神戸大にいた頃に毎日のように高架下を通っていた高速道路が横倒しに倒れるなんて、想像もしていなかった。関西ではジャーナリズム関連の人から「関西には地震が少ないですよね」と質問されたら、「確かに有感地震は少ないけれど、過去には被害地震がかなり有ったのですよ。慶長年間の有馬の地震とか。」という返事をしていたものであった。しかし、被害の程度がどれ程かについては、ボク自身も具体的には想像できていなかった。まして、阪神近傍で6400人余りの人命が失われる事になるとは、全く予想していなかった。この阪神淡路大震災を契機にボクの関心事は否応なく防災/減災の割合が大きくなった。思えば、豊田講堂の前に広がる「緑の芝生」が印象的な名大に移ってきたのは15年前の1991年4月であった。この年は湾岸戦争、そしてベルリンの壁の消失に始まったソビエト連邦の崩壊の第二幕、保守派共産主義者によるクーデター未遂事件とエリツイン大統領の就任、と激退職にあたって 〈阪神淡路大震災の衝撃〉26退職にあたって 〈阪神淡路大震災の衝撃〉藤井直之 地震火山・防災研究センター

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