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でいいから見栄えのするパンフレットが欲しいというのだ。必要性は分かっても私が一番嫌いなセイルズマンの仕事だったので、科長の意を体する評議員たちとはしばしば対立した。私は一匹狼と言えるほど強い人間ではないが、他人と群れることは好きではないので、喧嘩の場にはいつも一人で出かけた。幸い若い広報委員の仲間は私を支えてくれた。「常軌を逸したあんな評議員の言うことに従う必要はありません。」と励ましてくれた助教授もいた。研究科広報誌の企画に取りかかったのは2001年の秋頃だった。「さあ、いよいよ私たちの出番だ!」と張りきった。私が作った編集方針を叩き台にして、5人でかなり長い時間議論して次のような結論に至った。情報文化学部、文学部、工学部、理学部からの寄り合いの大所帯の新研究科が統一的な研究・教育組織として名実共に成長、発展するのは容易なことではない。従来の名古屋大学でも、学閥、学部閥、党閥、思想閥がはびこって総合大学の体を成すことに苦労してきたのだから。(1960年代後半に名古屋大学の法哲学者平野秩夫教授が院生だった私に話してくれた言葉だが、今でも変らない真実だと思う。)それで、さまざまな出身母体のけち臭い「文化」に視野を塞がれてきた教員、職員、院生たちが、互いに率直に激しく議論することにより、本物の知識人として理解を深め、できたばかりの共同体が成長することに役立つ討論の場(Forum)を作るために力を注ぐことにした。具体的な方法についての議論に移ると、私も初めのうちは疲れを覚えることが少なくなかった。何しろ「新々人類」とも言うべき世代の教員相手だから。初代編集長に内定していた森博嗣さんなどは、「環境のためには紙媒体の広報誌は良くないと思います。Web上だけでいいのでは・・・」とまで言う。流石にこれには、「学外の偉いお年寄りにも読んで貰う為には、やはり雑誌の形でないと・・・」と反論した。KWAN「環」創刊後の4年間を顧みて 「変わりゆくエリート教員文化」のなかで20

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