【KWANの目標】入れ替わりがあったが、定着した初代の編集委員は、私のほかに阿部理、市川康明、平原靖大、森博嗣の5人だった。出身学部は、工学部、理学部、情報文化学部で、私のほかは助手と助教授という若い世代だった。自分の学問分野とまったく違う理系の若い人々と一緒に仕事ができることになったことが嬉しかった。生来私は好奇心が強いので、自分が知らない世界で年寄り世代と違う発想で勉強している若い人々から知的な刺激を受けることが楽しみだった。ところで、初代研究科長に担がれた小川克郎さんは、さすがに一角の人物だった。設立準備のために様々な学部出身者の結束を固めるために企画されたパーティーで初めて会話をした。埋蔵エネルギ調査に出かけた東南アジアの密林で、前後を警護する兵隊が、猛毒のグリーン・スネイクが上から襲ってくるのに備えて銃の安全装置をはずしていたという話は面白かった。この後でパーティーの終了後10分も経たないうちに、偶然地下鉄で会うとは思わなかった。車内で、「僕は作曲するんです。」と彼は言った。「ピアノでやるんですか?」と訊くと、「楽器はできません。」との返事に呆れた。「楽器ができなくて、どうやって作曲できるんですか?」。「コンピュータを使ってオーストリア人と共同で作ることもあります。」という話にはついていけなかった。これでは、私の方がずっと年寄りのような逆転したやりとりだ。でも、こんなに例外的に文化的な話ができる人が私たちの研究科の長と知って、また広報活動に少しは力を入れてもいいと思った。環境学研究科が発足するまでの半年間は意に反する仕事を沢山やらされた。研究科長が文部省の役人に説明したり、財界の人々と会うときの手土産に、内容は二の次KWAN「環」創刊後の4年間を顧みて 「変わりゆくエリート教員文化」のなかで19
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