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新環境倫理学のすすめ
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新環境倫理学のすすめ
田中 浩:地球環境科学専攻

1. はじめに
 蝶を追いかけ、大きくなったら蝶学博士になりたいと思っていた少年が、湯川博士がノーベル賞を受けたのを機に自然の基本構造を研究することに興味をもった。しかし、それも果たせず気づいてみたら心ならずも気象学(当時の物理学の連中にいわせれば牛馬の学問)の世界に踏み込んでいた。半分あきらめつつも、気象学のなかでも一番数式を多用する大気力学に自分の心を駆り立ててきた。しかし、長い時代が経過したいまでも、書店に入ると物理学の教養書を買ってしまう。やっと気象学になじんできたころ、地球温暖化やオゾンホールなどの地球環境問題がクローズアップされ、定常地球から変動地球への意識の変革がせまられるようになった。そのあおりを食ってこの10年は地球温暖化による気候変化や大気中の物質循環の研究にも関与してきたが、研究費獲得のための口実であったような気がしないでもない。ただ、この程度の研究内容の「ぶれ」は学会でも許容範囲にはいり、異端視されることはなかった。
 2年ほど前に、文理融合を目的とした環境学研究科が発足しその一員となった。地球環境問題は気象学・気候学の研究だけでは解決しないことはもちろん承知している。理工学全体の研究に広げても十分ではないだろう。多くの解決の糸口を文系の学問に期待せざるを得ないところがある。とはいえ私自身が文理融合に踏み切るには覚悟がいるし、過去の蓄積を捨て去るのは惜しくもある。現役でいるかぎり新しい領域に大きく転換することはできなかった。これまで数式をこねるタイプの理論的研究に主力を置いてきたからといって文系的思考が不得手だとは思っていないし、嫌いでもない。実際、哲学・倫理学・経済学・国際政治学などにも密かに興味を抱いてきたが、ひた隠しにしてきただけである。中国の新指導者の多くは清華大学などの理工系学部を卒業したエリート達ではないか。時代の転換期には理工系が活躍することが多い。

2. あくなき数値化
 人類の数万年の歴史を通じて、人口が増加に転じたのは産業革命による生産力の増加がある程度達成されるようになってからのわずか200年である。すでに人口増加率はピークを過ぎ、数百年後には再び人口が増加しない安定社会が到来するであろう。資源を食いつくし、森林を切りつくせば広大な地域が砂漠化しアルベドの増加を伴って必ずや地球温暖化は止まるであろう。しかし、砂漠化した広漠たる地球上に出現する安定社会などだれが望むだろうか。未来の安定社会はすばらしい社会であってほしい。そのためにも21世紀の舵取りこそ地球の未来に決定的な影響を及ぼすことは確実である。
 IPCC(気候変動政府間パネル)による2001年に出版された報告書によれば、2100年の温度上昇は1.4〜5.8度と大きな不確定さを示している。この不確定さの原因には、気象学・海洋学・物質循環学などの学問的未成熟によるもの、大気・海洋・陸域結合モデルの未整備によるもの、社会の発展段階を記述するシナリオの不確実さによるものなどが混在している。例えば、現状での100kmメッシュ・モデルでは積雲対流や各種層雲のスケールを直接的に表現することができない。雲は気候決定に大きく寄与し、その取り扱いによってはどのような温度設定も可能になってしまう。気象学・気候学研究の役割は学問の成熟化とモデルの高度化であり、できるだけ確からしい予測を提供することである。事実、地球フロンテイアの地球シミュレータ(ウルトラコンピュータ)ではメッシュを10kmまで短縮し、雲の効果を直接計算できるまでになった。この調子でコンピュータが発達すれば、経済予測や社会発展のシナリオ作りは容易に数値化できてしまうかもしれない。このようなあくなき数値化はモデル屋の夢でもあり、これが文理融合の一つの結末を示している。いかなる科学的成果も数値化できないものはないという信念をもつ人は少なくない。
 ただ、このようなあくなき数値化は科学研究の中央集権化に通じる危険性をもつ。大容量高速コンピュータをもって強力に数値化を進められるのは大学のような分散化した組織ではなく、資金と人材を湯水のごとく投入できる集中化した組織である。大学には周辺の細々とした研究があてがわれるだけである。環境研究の分化が起こりつつある気配を感じる。IPCCといえども、参加しているのは大型シミュレーションを実施している政府組織の研究者が多く、大学の研究者が参加する機会は制限されている。

3. 技術と環境問題
 技術の発達が環境問題を解決できるかどうかはおおいに議論の余地がある。環境へのインパクトは「I=PAT」という公式で表されるといわれる。I(Impact)は環境破壊へのインパクト、P(Population)は人口、A(Affluence)は快適性への欲望、T(Technology)は技術の発達、を表す。残念ながら過去の技術(特に大型技術)の発達は、自然環境と生態系を破壊し、温暖化を引き起こすという代価を払って人間生活を快適にすることに寄与してきたことは否定できない。エネルギーを消費しない技術、新しいエネルギーを生み出す技術、環境負荷を低減させる技術など、技術に対する考えも大きく変化したことを認めるにやぶさかではないが、いくらすばらしい技術が開発されても、社会化できる経済的余裕があるかどうかが問題である。核融合発電が開発されても経済的にペイするかどうか、当面はペイしなくてもいずれペイするようになるのか、的確な見通しが不可欠である。インターネットのようなIT技術の発達は目を見張るものがある。最近は一日たりともパソコンから離れることができない。パソコンは便利な道具であるが、決められた仕事が早く終わっても休むわけにいかず、新しい仕事がどんどん入ってきてしまう。パソコンは生活に余裕をもたらすものではなく、仕事の量を増やしていることは明白である。高度通信社会は社会の動きを加速し人間の精神を不安定化する。どんなに先端的な技術といえども無条件に礼賛することはできない。

4. 環境倫理学
 コンピュータや先端技術の発展によって環境問題を解決することができるという楽観主義がある。一方、生態系の破壊を食い止めるにはライフスタイルや人生観まで変えなければならないという厳格主義がある。前者は環境の物質的側面を強調し、後者はその精神的側面を強調する。このままいけばイデオロギー対立として顕在化する恐れがある。両者に共通する何かが必要である。
 しばらく前になるが、加藤尚武氏の「環境倫理学のすすめ」という本をたまたま読んだことがある。加藤尚武氏といえば、新設の鳥取環境大学の学長でわが国の哲学界の重鎮でもあるので、本書を読んだ人も少なくないだろう。その後多忙にまぎれてしばらく忘れていたが、環境学研究科の発足と、自身の定年を機にいろいろ考えるところがあり最近もう一度読み直してみて印象を新たにした。加藤環境倫理学が成立するには三つの「しばり」が必要である。第一に、人間の生存権ばかりでなく自然(動植物)にも生存権を認める。もちろん自然の生存権にもいくつかのレベルがありどこまでを認めるかは選択の余地はあるが、もっとも厳しくすれば人間活動がほとんど不可能になる。第二に、環境倫理は現在世代ばかりでなく未来世代にも同等の権利を認める。近代的諸制度は現在世代の権利のみを認めており、過去の世代や未来の世代の権利は認めていない。すなわち、世代間の通時的(歴史的)配慮がまったく認められていない。第三に、環境倫理は地球全体主義と呼ばれる強い強制力をもたねばならない。欲望の解放をめざした自由主義や進歩主義などの近代思想は無限空間でのみ有効で、地球のような有限空間では抑制されなければならない。
 加藤尚武氏は環境倫理を生命倫理と比較しながらその特徴を述べている。生命倫理には愚行権が認められているという。喫煙は癌になる確率が高いが吸うか吸わないかはまだ個人の愚行権として容認される。多くの人の命が臓器移植によって救われるかもしれないのに移植を許可するかどうかは本人や遺族の意思に任されている。生命倫理には良し悪しは別にしてまだ個人の自由が存在するのである。一方、環境倫理は愚行権をまったく認めない厳格なものであるらしい。ダメなものはダメなのである。これは環境倫理学の学問的帰結であって必ずしも加藤尚武氏の本意ではないかもしれない。

5. 世界動向(グローバリズムと階層化)
 世界もわが国も、現在の政治・経済・文化・科学などの状況は複雑で混沌としているようにみえる。経済成長が飽和したにもかかわらず、世界中で成長意欲は弱まっていない。「構造改革なくして成長なし」とは「社会をもっと効率化すれば成長が可能になる」ということである。構造とは社会のハイラーキのことであり、構造改革とはハイラーキを再構成すること、すなわち、効率化を基準にして階層化させることである。わが国はこれまで極端な平等化政策を推し進めてきた。都市の税金を地方に移して格差を少なくするように心掛けてきた。農業や中小企業などの非効率な産業には手厚い補助金を配分してきた。地方にも高速道路や新幹線を採算を度外視して建設し続けてきた。このような平等化政策は高度成長時代は有効に機能したが、バブル崩壊以降国が膨大な借金を抱えることになっていまや破綻に瀕している。現在の状況で経済成長を達成させる唯一の方法は構造改革しか残されていないのは確かであり、わが国はここまで追い詰められているのである。企業ばかりでなく、人間も非効率ならば置いてきぼりになるし、国ですら非効率ならば取り残される。まさに緊張を強いられる社会である。
 欧米列強による「帝国主義」、「植民地主義」が19世紀から20世紀にかけて猛威をふるったが、それはしかし、個別の強国の主権に基づく収奪形態に過ぎなかった。かつて起こった収奪が、冷戦が終わってバランスの崩れた世界にふたたび駘蕩し始めている。それもグローバルに。ハート・ネグリ両氏による著書「エンパイア」において地球帝国(グローバリズム)と呼べるべき状況の到来を予見している。G8、IMF、WTOなどによる政治・経済システムのグローバル指向、企業の海外移転、NGOの展開、インターネットの発達、テロリズムの脅威など多くの面でボーダーレス化が進み、逆に国家主権が部分的に衰退しつつあることを見ても、グローバリズムが加速していることがわかる。
 グローバリズムがすべて悪いわけではなく、評価できる部分も少なくない。地球環境問題の多くはグローバルな組織や条約によらなければ解決不可能である。オゾンホールの問題は、モントリオール議定書によりフロン放出が制限され、いまや南極オゾンに回復の兆しがみえてきた。地球温暖化に対する取り組みも、気候変動枠組み条約によってしか具体的な解決は期待できない。これらはグローバリズムの長所である。IPCC(気候変動政府間パネル)もグローバル化した組織である。ただ、これらは地球環境問題を解決するには必要不可欠な組織ではあるが、個人の活動や意見は埋没してしまうことは避けられず、やはり地球全体主義の風潮を感じざるを得ない。

6. 環境倫理学への危惧
 このような世界の趨勢を見るにつけ、環境問題の前に横たわる多くの困難を感じざるを得ない。私は、環境倫理の思想潮流がグローバリズムと歩調を合わせているような危惧を覚えてならない。加藤尚武氏が環境倫理は「地球全体主義」でなければならないと述べていることからも、環境倫理と社会効率化は互いに相性の良さをもっている。環境倫理は個人主義や自由主義を厳しく抑制するため封建思想とも相性は悪くない。最近よく耳にするうわべだけの「江戸時代礼賛」にも一脈通じる思想である。また、環境倫理はその全体主義的性格からファッシズムに通じる可能性もある。ナチスは環境政策に大きな関心を払ったといわれている。米国のさまざまなエコロジー思想にも、ピューリタ二ズムに依拠したクルセダー的なものが少なくない。私は、環境倫理のようなイデオロギー的色彩の濃い思想を好き好んで環境問題に持ち込むべきだとは思わないが、時代々々に特有な思想の潮流が必ず存在することは歴史を見れば明らかである。明治時代は「富国強兵」、戦後は「民主主義」、「経済成長」などの卓越した思想潮流に助けられて国家政策の遂行がきわめて容易になったことを忘れてはならない。加藤環境倫理学に代表される抑圧的で一抹の危険を孕んだ環境思想のもとでわれわれは21世紀を生き抜かねばならないのはむしろ憂鬱なことである。18世紀にマルクスが夢見たコミュニズムはソ連では決して成就されなかった。現在進んでいるグローバリズムは全人類にとって必ずしも理想の社会ではなさそうであるが、少なくとも100年間は継続する予感がしてならない。グローバリズムの後に到来する「新しい循環型社会」がいかなる社会なのかまだ予想すらできないからである。

7. 新しい環境倫理学を求めて
 環境問題の宿命を背負って薄暗い時代を人類は生きていくことになりそうである。しかし、環境倫理がこのように抑圧的なものである必然性はあるのだろうか。人類の総決算である近代主義の長所を生かした環境倫理の道はないものだろうか。あるいは、もっと人間の心にやすらぎを与える環境倫理はないものであろうか。わが国には何万、何十万という神社・仏閣・城郭があり、そこには美しい森や林が残されているではないか。これはアメリカにはない日本の貴重な財産である。人々はそこでは敬虔な気持ちになり決して自然を破壊しようなどという気持ちになることはない。紀伊半島南部は、吉野山、高野山、熊野三山を有する一大霊域で世界遺産を目指している。八十八ヶ所巡礼路をもつ四国を丸ごと世界遺産にすることも可能である。この他にも世界遺産候補は日本各地に存在する。これらは抑圧的でない方法で自然環境を維持することも可能であるという例であり、人間の自然な感情に沿った環境倫理の一つであろう。私の頭の中にはこれ以上の新しい環境倫理のアイデアは浮かんでこないので理論化はお手上げの状態であるが、心が楽しくなる環境倫理学であってほしい。学問はプロフェッショナルであるべきだとは思うが、文理融合を進めるにはプロ意識をあまり前面に出すことは避け、なるべく多くの異なった領域の研究者が共通に興味をもてるテーマを模索しなければならない。その一つが「新しい環境倫理学のすすめ」であってほしい。

8. おわりに
 定年を迎えるに際して、まことに悔いの残る現役時代であったと思う。しかし、いまさら力んでみてもどうなるわけでもないので諦めるしかない。しかし、本業から少し視線をそらしてみると、そこには新しい領域が広がっている。現役時代の学問的束縛から解き放たれ、環境問題に向けた文理融合のテーマに取り組めるかもしれないという開放感と期待感が湧いてくる。まことに矛盾に満ちた大学人生ではある。環境問題の解決には多くの道があるが、ここでは倫理学という視点から私のつたない考えを述べてきた。哲学や倫理学には興味はあるのだが、なにせ知識量が乏しく的外れの箇所があればお許しいただきたい。興味を共有できる方々とは今後とも是非ノンプロの議論をお願いしたいものである。

参考文献
環境倫理学のすすめ 加藤尚武 丸善ライブラリー(1991)
エンパイア M.ハート,A.ネグリ ハーバード大学出版(2000)

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