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広報誌「KWAN(環)」の発刊にあたって
西のかた陽関をいずれば
黄砂の源を訪ねて-その1
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名古屋大学大学院
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西のかた陽関をいずれば
溝口常俊(社会環境学専攻・地理学)

 まず、失敗談を語らねばならない。
 2001年10月20日、中国西部ウルムチの新彊大学で開催された日中地理学会の合同発表会でのことである。9月中旬に日本からのメンバーが足りないので急遽参加してくれないかとの誘いに軽くのってしまったのがことの始りである。中学時代、スエム・ヘディンの「さまよえる湖」のラジオ放送が耳に残り、高校時代に読んだ井上靖の『敦煌』の舞台についに行けるのか、との期待感のみで、義務づけられていた発表なんて頭の片隅にもなかった。さて、入国3日目の当日。特別何かのテーマに関してのシンポジウムでもなく、各自の研究成果を数十分話せばいいとのことであったので、まだ記憶がさめやらないカナダ・ケベックでの国際歴史地理学会で8月に話した内容(近世日本の中心周辺論)をほぼそのまま発表した。聴衆約30人の内、何人ぐらいが私の英語でのつたない発表を理解してくれるのだろうか、と考えながら話すという余裕さえあったが、終了後、司会者から、「ところで、あなたの発表は現在の中国西域の開発にいかなる貢献をすることができるのですか」という、予期しない質問が飛んできた。「えっ」とかすかな声を発しただけで20秒間沈黙。日本の学会でなら「貢献などしません。そういう目的での研究ではありませんから」と即座に答えたであろうが、ここは中国、招待された身である。そのままストレートに答えたら申しわけない、では、なんて答えよう、などとあれこれ考えていて、結局答えられずじまい。その場は他の発言に助けられたが、冷汗ものであった。
 そういえば、似たような質問をかって発せられたことを思い出した。85年、初めてのバングラデシュ調査で、定期市での聞取りを重ねていた時、地元民にあなた達の調査は我々にとって何か役に立ちますか、と。その問いに「アカデミックな調査ですので、直接役には立ちませんが」と何とも空しく小さくつぶやかざるを得なかった苦い経験があった。新彊大学は中国西部の開発プロジェクトの拠点大学であったことを知り、わが発表も場を鑑みて少しは提言ぽいことを盛込むべきであったのかと反省することしきりであった。中国側の発表は全員、自分の研究プロジェクトがこんなに国家から予算を獲得し、いかに国家、人民の為になるかを蕩々と述べる内容であったし、その後訪問した蘭州の氷河・砂漠研究所、北京の地理科学与資源研究所、北京大学での交歓会での中国側の話も100%それに準じていた。
 いきなりKOを食った出だしであったが、学会後1週間の中国遊覧の旅は実に有意義であった。ウルムチ、トルファン、敦煌というシルクロードのオアシス都市での見聞を2、3紹介して、いやな思い出を忘れることにしよう。
 氷河と砂漠の町というキャッチフレーズで売りだそうとしているウルムチを後にしてバスで2時間東に向えばトルファンに着く。その間、ゴビの砂漠を走るハイウエイは快適で、左手に油田の櫓が火を噴き、右手には風力発電機の3枚プロペラが回っている。いずれも西部開発の象徴だ。一瞬、砂漠に残雪かと思ったのは、実は塩であって、その広がりは半端ではない。途中製塩工場を目にしたときは感心もしたが、この塩との戦いが、過酷な気象条件以上に砂漠での農業開発の最大の課題である。地下の人工水路カレーズが引かれた所のみが防風林に囲まれた葡萄畑や綿作地となって生れかわっているが、そうしたところは砂上の一画にすぎない。さて、トルファン。交河故城、『西遊記』で孫悟空が活躍する火焔山、1泊ではこの2カ所しか行けなかったが史跡が多く、歴史ファンにはたまらない町だ。朝市あり、夜市あり、将棋する男達、洗濯する女達、ロバの荷台に揺れる若夫婦、干しぶどう売り・・・、10月のトルファンの町は何時間ぶらついても厭きない。その日の夜、イスラムの割礼の儀式の日で一族郎党がダンスパーテイを繰広げている式場にまちがって入り込み、ビールをご馳走になる。ウイグルファンになった日でもあった。
 夜汽車で敦煌に向う。早朝、敦煌の鉄道駅から市街地まで、砂漠の中をまっしぐら。マイクロバスの中から前を見ても後ろを見ても一直線の道路が地平線に消える。それが延々と2時間続く。砂漠の灌木トマリスクのみがかすかに生命を感じさせてくれる。町に近づいたもののまだまだ砂漠のまっただ中におわんを伏せたような高まりが点々とみえた。お墓だという。砂漠の民が眠るのはやはり砂漠なのか、と感じ入ったり、市街地の中では地価が高くて墓は設営できないと聞き、興ざめたりもした。この砂漠の地にすでに光ファイバーの敷設がなされているのに目をみはりもしたが、これと並行して砂岩でできた漢代の狼煙台が東方に向って延々と残っている。ラクダの糞は軟弱で使いものにならないが狼の糞を燃やすと煙がまっすぐ上に登る、だから「狼煙」というのだというガイドの講釈を興味深く聞きつつも、北京まで3日で情報が伝達されたというのに驚く。2000年前という時代を考えれば、これは光に匹敵する速さといってよかろう。独自のGIS「超図」は開発されているし、携帯電話の普及台数はアメリカを抜いて世界一である。今も昔も中国のITにはかなわない。
 シルクロードは敦煌を拠点に3ルートに分れる。タクラマカン砂漠の南縁をホータンを経て西に進む南路、砂漠北縁をローラン、カシュガルへと続く中路、それに天山山脈の北麓をウルムチ経由で走る北路である。いずれも中国とヨーロッパを結ぶ東西の路である。その南路を1時間半西に走ったところに古代の関所「陽関」(写真1)がある。唐の詩人王維が「西のかた陽関を出づれば故人無からん」と、友が安西都護府(トルファン)へ官命で出張するのを見おくって詠んだ詩に登場する関所である。この関に立って西を見渡したが、故人(親しい友)どころかトマリスクさえも見えないタクラマカンの岩石砂漠が波打って地平の彼方に延びている。そんな地の果てを越えて行くのだから、まあ飲めや、と王維は先の句の前句で「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」と勧めたのである。


写真1

 中国内地から見れば西の果てであるが、外から多数入る人もまたいたはずである。ここの骨董市でヒンズーの女神「カーリー」の小型ブロンズ像(写真2)が目にとまった。夫シバ神に乗っかり陶酔状態で悪魔の首の血をしたたらせている像は、グロテスクではあるがベンガルの民の守護神であり、私のインド・バングラデシュでの延一年余のフィールドワークの際に最も魅せられた神でもあった。それがヒマラヤの高峰を越えてインド、ベンガル地方から渡ってきたのである。昨今、海のシルクロードを加え東西のルートのみに目を奪われているが、南北のシルクロードを再評価すべきではなかろうかと思う。かつて三蔵法師が通った路、河口慧海が旅した路の復元である。敦煌の莫高窟の主役はインドの神々ではないか。改めて陽関から西のかたをながめると、9月11日のニューヨーク貿易センター破壊というテロ事件の報復として米軍がアフガン攻撃中である。とても南西ルートのパミール越えでインドには行けない。しばらくは南東ルートを極めるしかなかろう。幸い、中国は国を挙げてチベットに大鉄道路線を敷設しようとしている。SLに揺られて天上のシルクロードを南下する旅をいつか実現させたいものである。再見&謝々。


写真2

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