環境学研究科
Graduate School of Environmental Studies

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  環境学と私
このコーナーでは、環境学研究科の教員がそれぞれの関心や出来事について広く語りかけます。

 忘れてならない二つの災害碑

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地球環境学専攻 地球惑星ダイナミクス講座
木股 文昭 教授
(地震学)
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写真1  現在の東桜島小学校校庭に立つ櫻島爆發記念碑(東桜島小学校のサイトから)
 
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写真2 田老町(当時)の津波防災都市宣言の碑
々は大きな悲しみを体験すると後世に伝えるため、碑を建立します。私にとり忘れられない碑が二つあります。
つは、旧東櫻島村(現鹿児島市)の東桜島小学校校庭に建つ櫻島爆發記念碑(写真1)。「住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス」が強く記憶に残っています。
は、桜島火山の大正噴火で大きな災害を被りました。噴火に先立ち、激しい有感地震や噴気活動が襲い、村は気象台に避難を尋ねましたが、避難に当たらずの回答でした。でも、連続的に襲う激しい地震と噴気で住民は避難します。気象台の回答の下に職務した村職員だけが避難に遅れ、溶岩が襲うなか、海に逃げて殉職しました。
もう一つは旧田老町(現岩手県宮古市)の津波防災都市宣言の碑(写真2)。「私たちは、(中略)、津波被害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、(中略)、地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」と記されています。町は大堤防だけに命を預けず、防災のための英知を求めていたことが明らかです。
は明治と昭和の津波で二千人と千人を失いました。政府から高所移転を強いられるなか、ふさわしい場所もなく、村は独自で10mの大防潮堤を築きました。それだけでなく、海岸から山に伸びる道路、その先に避難所を建て、海岸にいても歩いて10分で避難できるようにした。さらに、学校に津波被災経験者を招き、明治や昭和の悲惨な思い出を聞いています。毎年、昭和三陸津波が襲った3月3日に津波避難訓練を繰り返していました。そして、2005年に津波防災都市を宣言しました。
月11日も30mを超える津波に襲われ、大堤防も軽く乗り越えられ、144人を失います。しかし、犠牲者は明治の二千人、昭和の千人から大幅に減少し、死亡率も5%まで減じました。
万人の東日本大震災の犠牲者から見つめられる私たち。フクシマ原発事故記念公園に私たちは決意を示す碑を建立せねばなりません。そこに献花するまで私は生きたいものです。
(きまた ふみあき)
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